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zoom RSS 第81話   昭和50年代のT工業高校は活気に満ちていた。パートB

<<   作成日時 : 2007/06/25 21:21   >>

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 昭和53年に玉しま高校から転勤した私は、5科がそれぞれ競い合っているT山工業高校の、大いなるエネルギーを感じた。 そしてサッカー部に僅かではあるが全国大会出場の可能性を見出した。 部員と共に汗を流す事により、選手の実力の把握と弱点の修正に役立ち、チーム力は日ごとに確実にアップしていった。 そしてついに県インターハイ予選の決勝戦に進出したのである。  相手は熱血K村監督の率いる作よう高校である。  実は私は、たま島高校に新採用で赴任した50年11月の選手権予選の準々決勝でさく陽高校と対戦した経験がある。  当時25歳で独身の私は、雨の中でもグランドで練習をし、夏は学校で合宿をし、早朝と夜は理論、午前・午後は3時間練習で部員を鍛えた。  目元がいつ木ひろしに似ていた私は、女子生徒から “五木先生を守る会” やら影で “ファンクラブ” が出来ていて、山陽放送に投書され、ラジオで “雨の中でも部員と練習している先生” として2度も放送されたようだ・・・。  その年、作ようはインターハイ予選で初めて決勝に進み、みず島工業高校に敗れていた。 選手権こそはと張り切っていたのだが、なんと無名のたま島高校の1、2年生チームに 0-1と敗れ去り、泣きながらグランドを去って行った光景を私は覚えていた。  さて、私は公式戦2度目のさく陽高校との対戦であったが、T山工業高校サッカー部員は最後まで集中力を保ち、攻め込まれながらも身体を張って得点を許さず、カウンターから2点を奪い2−0で快勝し初のインターハイ出場を決めたのであった・・・。  試合後 「うちのサッカー部員は頭が悪すぎる。 A日高校に行けるような頭の良い生徒を取ってこんと勝てんわ!」 とあたり散らすK監督がいた・・・。  国体選手7名を要する相手に (この年にT山工業高校は3名) かくしてバレーボール部と共に福島インターハイ出場を果たしたのである。  そして翌54年の選手権決勝で再び対戦し、またも1−0でT山工業高校が勝利した為、さく陽が全国大会初出場を決めるのは55年のインターハイまで待つことになる・・・。   懐かしい青春の思い出がつい先日のように思い出されるが、27年も前の事になるのか・・・。  あの頃は誰にも負けなかったパワー&スピードも、今では落ちぶれて超高校生レベルに近づいてしまった・・・。 情けない。 最低だ・・・。  でも今勤務している母校では、筋トレでほとんどの種目で、他の運動部員が私のトレーニングを見て目を丸くする・・・。  私にはなんて事はない普通のトレーニングだが・・・。 



 

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